top of page

【栖賢寺の来歴】

 

 

 栖賢寺は、南北朝時代の康永年間(今から約650年前)、尼崎大物の地に臨済宗大徳寺派の寺院として、大徳寺74世竺堂円瞿(じくどうえんく)禅師によって開山されました。

 本能寺の変の後、明智光秀勢の待ち伏せにあった秀吉が、剃髪し僧形になって栖賢寺に身を隠し難を逃れた逸話が『絵本太閤記』に残っています。この逸話がそのまま史実であるかどうかは分かりませんが、秀吉の軍議が栖賢寺で開かれたことや、千利休との関わりはあったようです。その縁からか、天下統一後の秀吉より寺領を寄進されています。

 中興開山は、大徳寺総見院において、織田信長の葬儀の導師を勤めた、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)禅師。

 

 近代に入り荒廃していた当山は、実業家で数寄者であった山口玄洞氏の寄進により、臨済宗方広寺派元管長、間宮英宗老師を昭和の中興開山として、昭和7年、京都市左京区上高野の現在地に移転再建されました。山口玄洞氏は多数の寺社仏閣の復興に尽力した人物ですが、寄進するにあたってその寺が、由緒正しい寺である事、悪人でも襟を正すような景勝の聖地にある事などを条件にしたといいます。

 

 現在栖賢寺は、無檀家の禅寺です。

 1000坪の境内地の中に庭園、観音堂、鐘楼、鳳凰閣、茶室、本堂などの伽藍を持ちます。しばらくの無住の時代を経て、2016年7月に新住職が安居。真の平安を志す仲間とともに老朽化した境内の維持、復興に向けて、日々坐禅や精神的な修行を中心とした寺院活動に勤めています。

 

【寺宝】京都府指定文化財 木造竺堂円瞿坐像

bottom of page